ジャニーズの一連の問題についてアメリカ人の友人と話してみました(以下、長くなります)。
日本人の「和を以て貴しとなす」という美徳は裏を返せば、「出る杭は打たれる」という悪習となり、間違ったこと、不正義に対して個人が立ち向かうという意識を削ぐ結果になることが多いと思います。
アメリカ人はハリウッド映画に見られるように、良くも悪くもヒロイズムが強く、不正義(injustice)や不平等(unfairness)に対して敏感であり、周りの人間が見過ごしている不正に対してヒーローとして立ち向かうことが社会的にも素晴らしいという意識が強いと思います。アメリカ人は、例え絶大な権力者であったとしても、相手の不正に立ち向かい、その結果、注目を浴びて、自らの身に不利益がある可能性があっても、権力者といわば刺し違えるのがヒーローであるという気概が究極の美徳であると考えているのではないでしょうか。
また、子供のころから意見の対立に慣れているということも大きいかと思います。日本=同質性(Homogenious)、アメリカ=多様性(Diverse)という国民・文化の違いは日米の差を説明する多くの場合に役立ちますが、日本人は周りの人との考え方や感性が近い環境で育っていくことが多いので、自分の考え方=周りの考え方という帰納的な日常が、いつしか、周りの考え方=自分の正解という演繹的な公式に置換してしまうのかもしれません。 これに対してアメリカ人は、自分の考え方と全く同じ人に会うことの方が幼少期から珍しく、それで意見が対立することも多く経験するので、自分の考え方を持たなければ自己認識(Identity)が保てないという方向に行きやすいのかと思います。
これはどちらの国の教育が優れているとかそういうことではなく、同質性vs多様性という国民・文化の違いから発生する意識の差ではないかと思います。
アメリカでもジャニーズの問題のような権力者に阿る不正義の問題はありますが、それが40、50年もの間メディア含め白日の下にさらされることもなく、権力者が死去した後にやっと正されるということは、日本の同質的な国民・文化・社会性を典型的に表す鏡なのかなと友人と話していました。
学校でのイジメについても然り、ネットでの炎上バッシング然り、個人の意見の対立→対等な喧嘩ではなく、雰囲気的に多数が好きではない対象を、「なんとなく」集団リンチするという社会構造は、幼少期の多様性を欠いた環境から派生しているもののように思えてならないのです。
そして、そういったイジメや打たれる杭の矢面に立たされるのは、往々にして陰キャ、女性、LGBTQ、外国人等の、多数とは異なる価値観や意見を持つ、日本のマイノリティや弱者の方々です。この構図が日本の色々な社会問題の根幹に横たわっているのではないでしょうか。
民主主義は多数決ですが、日本という同質性の高い国においては、より強く、少数者や弱者の意見に耳を傾ける必要があります。 多様性の中で育つ(又は少なくとも海外旅行等でそういう経験を多くさせる)のが子供たちにとって如何に重要か、今一度考えてみたいと思います。